法然院の地はもともと浄土宗の開祖である法然とその弟子たちが、念仏三昧の別行を修する道場の庵が営まれていた場所だと伝わる。比叡山を下り、度重なる旧仏教教団からの弾圧にも耐えた法然上人は専修念仏の教えを貴族や武士、一般庶民に説いた。法然には安楽房遵西(あんらくぼうじゅんさい)と住蓮(じゅうれん)という弟子がおり、その二人の美しく抑揚のある礼拝は、多くの都の人を惹きつけていた。1206(建永元)年、安楽と住蓮を慕った後鳥羽上皇の院の女房である松虫と鈴虫が上皇の留守中に出家をしてしまい、事情を知った上皇はこのことに激怒した。翌年2月、法然は讃岐に流罪。安楽は鴨川の六条河原で、住蓮は近江の馬淵でそれぞれ首を切られた。そして草庵はその後、荒廃していまう。
草庵が復興するのは、その後長い時間が経った江戸時代に入ってからである。一説によると1628(寛永5)年。鹿ケ谷の総堂に知恩院29世尊照の弟子である浄教寺の住持が隠居したとされる。その後浄教寺の阿弥陀仏を移して安置し法然院と称したとされる。また1680(延宝8)年には知恩院38世萬無(ばんぶ)が弟子忍澂(にんちょう)の鹿ケ谷の念仏道場の発願を受け、徳川4代将軍家綱に願い出て、善気山の麓に新たに境内地2千坪を拝領し本堂をはじめとする諸堂が完成された。
1687(貞享4)年には伏見城にあった八百宮の御殿の一つが法然院の方丈として移築、1689(元禄2)年には庭園に弁才尊天を安置する祠を建て鎮守社とした。法然院は知恩院の浄土宗鎮西派に属して歩んできたが、1953(昭和28)年に単立寺院として独立。そして現在に至っている。