相国寺の創建は1382(永徳2)年、室町幕府三代将軍足利義満による。1367(貞治6)年、二代将軍足利義詮(よしあきら)の死によってわずか9歳で家を継ぎ、元服後に征夷大将軍となった義満は、幼い頃から天龍寺にて、住持の春屋妙葩によって仏弟子として受衣し、朝から晩まで熱心に座禅修行をおこなっていたという。義満はその頃から天龍寺を凌ぐほどの一寺の建立を祈願していた。
相国寺はもとは伝教大師最澄が開創の出雲寺と、法然上人の神宮寺(後の百万遍知恩寺)と聖一国師(円爾)ゆかりの安聖寺との旧跡に跨った、室町第「花の御所」に隣り合った場所に建立された。義満は開山始祖を師である春屋妙葩に懇願するが、春屋はこれを固く辞退。春屋は二世の住持となり、開山は夢窓疎石とし、寺号は「萬年山相國承天禅寺」に決定した。
続いて義満は南禅寺を五山の上位と格上げし、すでに確定した京都五山の第二位に相国寺を加えた。また五山制度の確立とともに、春屋を初代僧録に任命する。僧録は臨済宗五山派寺院の支配総括し、中国との外交業務を行う役割を果した。その後、230年あまりにわたり相国寺が僧録司を独占することになる。
1393(明徳4)年には白河天皇が岡崎に建てた八角九重塔より27メートル高い、109メートルという七重塔の建設が開始されるが、度々の火災によって堂塔伽藍は焼失。1470(文明2)年に七重塔は再建されるも、落雷にあって再度焼失している。応仁の乱では相国寺の場所が、戦いの中心となり相国寺は大塔を残して灰燼と帰した。
相国寺の本格的な復興は1584(天正12)年に入寺した西笑承兌による。西笑は豊臣秀吉に重用され、主に外交文書の作成などをおこなった。西笑の活躍によって秀吉、秀頼、家康から支援をうけ、次々と伽藍を復興させた。しかしながら1615(元和元)年には相国寺創建から伝承されてきた僧録職が廃止。南禅寺の金地院崇伝に僧録がとって代わられる。その後も幾度も火災にあった相国寺は1802(享和2)年、113世の梅荘顕常により開山塔、方丈、庫裏が再興され、現在に至っている。