大徳寺は1315(正和4)年、播磨の守護赤松則村の帰依をうけた宗峰妙超(しょうほうみょうちょう)によって開創された。もともと大徳寺のあった地は淳和天皇によって建てられた離宮、雲林亭があり、後に常康親王が父帝仁明天皇の崩御により出家され天台宗の雲林寺とした。
宗峰妙超は1282(弘安5)年に播磨で生まれ、十一歳で出家して天台宗を学ぶが、禅に惹かれ鎌倉の万寿寺の高峰顕日に参じ、また宋から帰った名僧として名高かった南浦紹明に師事する。宗峰妙超は師大応国師がもつ峻烈な禅風をうけつぎ厳しい修行を旨とした。妙超は赤松則村の寄進で一宇を建てたのちも、鴨川五条の橋の下で乞食の郡にまじり、市井での修養をつんでしたという。禅に傾倒していた花園天皇は市内にあふれる乞食のなかにいる妙超を探し出すために、好物の真桑瓜を河原で配給すうことでようやく妙超を見けだしたという有名な逸話がある。
皇族のあつい信仰をえた大徳寺は1326(暦元)年に法堂が完成し伽藍が整い、後醍醐天皇により南禅寺と並び京都五山の第一位に列せられた。しかし足利尊氏の時代になると夢窓疎石に帰依していた尊氏により五山十刹のうちの第九位に落ち、次第に衰退していった。その後は応仁の乱で焼失し大徳寺は荒廃する。
大徳寺の復興は一休宗純(いっきゅうそうじゅん)に深く帰依していた堺の豪商による。一休は後小松天皇の子といわれ母親が藤原氏の出自であることから皇居を出て、在野で一休を産む。その後、京都の安国寺の待童になった一休は各地を転々とするが、その個性から多くの人が帰依し大徳寺の住持になるが、大徳寺に住むことはなかった。
1582(天正10)年には豊臣秀吉によって本能寺の変で死んだ織田信長の葬儀が大徳寺で行われた。これにより各大名は大徳寺の山内にこぞって諸院を建立することになり、寺勢はいちだんと高まった。秀吉に信長の葬儀を大徳寺でおこなうことをすすめたのは以前から大徳寺に参弾していた千利休であった。千利休は1591(天正19)年、大徳寺の三門に自身の木造を楼上に安置したことにより秀吉の怒りをかい切腹を命じられた。